当時800巻以上のヘブライ語の宗教的文書が数百人の職業的筆記者によって書かれたことを考えると、死海写本はエルサレム神殿図書館から流出したものと考えられる。紀元70年にユダヤ戦争でエルサレム神殿がローマ軍攻撃により完全焼失したことを考慮すると、ユダヤ戦争前あるいは戦争中にエルサレム神殿から持ち出され、クムラン洞窟に隠されたと想像される。
一説によると、エルサレム神殿祭司たちはユダヤ戦争中、もしも戦争後ローマ軍が神殿に入り図書館を検査した際、ユダヤ戦争の発端となったユダヤ過激派たちに関連する文書が見つかると神殿の立場が危うくなると心配し、神殿図書館じゅうの過激セクト関連文書を集めて少人数に託し、神殿を脱出させたという見方がある。 (ナグ・ハマディ写本にも見られるように、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ過激セクトによって書かれたもの、異端視されたものであっても、焼くことが禁止されていた。)
エルサレム神殿から山を東に降りヨルダン川に達すると東岸にはクムラン城塞(ユダヤ軍基地の一つ)がある。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ちこたえた。写本を抱えた一行はクムラン城塞の軍人たちに文書保管を依頼したが拒否されたため、城砦の下ヨルダン川沿岸に無数にある大小の天然洞窟に写本を隠したのであろう。
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この仮説は、死海写本の年代や、非常に多様なユダヤ教宗派の信条や外典が集められている点などをうまく説明する。
この仮説が正しいとすると、エルサレム神殿祭司たちの心配にもかかわらず神殿、図書館、正統的ユダヤ教文書はユダヤ戦争によって完全に焼失し、異端文書のみが二千年間保存されたという皮肉な結果になる。正統的ユダヤ教文書はラビたちが所有していた聖書が現代まで伝承された。
「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」という点に関しては、クムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が1990年代までは一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司達(サドカイ派)が率いる共同体だという見方も、徐々に受け入れられてきている。
1963年、ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は、死海文書はユダヤ教のエルサレム神殿の図書館で書かれたという説を発表した。1960年代には、この説は多くの学者に拒否された。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし、1990年代にはノーマン・ゴルブなどの学者がこの説を復活させた。ゴルブらは、神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を付け加えた。
スペインのイエズス会の神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[1][2][3][4][5][6]が新約聖書のマルコによる福音書(第6章、52-53節)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の紀元後30年から60年のものとなる。
1990年代には、ヴァチカンが文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特に、マイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(1992年、ISBN 4760108890)で、ロバート・アイゼンマンの憶測を一般向けに紹介した。憶測は次のような内容である。「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より原理主義的で厳格な初期キリスト教徒の共同体である。イエスの生涯はパウロによって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反ローマのメシア主義的カルトの影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマのスパイだった可能性がある。 ベイジェントとリーは、いくつかの主要な文書が数十年間に亘って意図的に隠されている、と主張する。なぜ隠されているのかというと、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。
死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、文書について様々な陰謀説がささやかれる。例えば、死海文書の作者は地球外生命だ、といったもの。