2009年06月15日

すぐきは、漬物のひとつ。カブの変種である

すぐきは、漬物のひとつ。カブの変種である酸茎菜(すぐきな、すぐきかぶらともいう)を原材料とする、現代の日本では数の少ない乳酸発酵漬物である。まったく味付けをしない調味なしの日本唯一の自然漬物といわれている。京都の伝統的な漬物であり、「柴漬」、「千枚漬」と並んで京都の三大漬物と言われている。

酸茎菜は、京都市北区の賀茂別雷神社(上賀茂神社)で栽培したのが発祥とされている。しかしその歴史についてはいまだに定かにはなっていない。約300余年前の「日次紀事」(1667年)への記載をはじめ、数々の本草書、詩文などにその名前が載っている。明治の時代になりその栽培が一般農家にも広がり、販売されるようになった。
バンジージャンプ
地球温暖化
体外離脱
白血病
花見
VDT症候群
元素周期表
油彩画
民話
翻訳
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水上スキー
漢方薬
スキー
心療内科
妖怪
血液学
近畿地方
ウエストナイル熱
中国地方

古来、酸茎菜の栽培と生産は、東西を賀茂川と高野川にはさまれた三角州の中で、北端を深泥池とする地区に限られ、ここで生育されたものだけが「すぐき」と名が付けられる。

酸茎菜の種蒔きは8月末に行われ11月下旬ごろに収穫される。収穫した後、皮を剥き下漬をした後本漬を行う。 本漬時の重石のかけ方は、独特の「天秤押し」というやり方で、長さ4?5mほどの丸太棒の一方を固定させ、もう一方の先に重石を下げて樽のフタを押さえる、「テコの原理」を利用した方法で行う。数日の本漬の後室に入れ加熱し発酵をさせる。 収穫してから約一月程度の期間で乳酸発酵したあめ色のすぐきが完成する。 酸茎菜の収穫は年明けまで続き、2月末ごろにはその年の漬け込みは終了する。 冬に息の見える頃が、最もおいしい期間である旬の京つけものの一つである。

発祥の頃は、時候熟れ(じこうなれ)の技法を用いられていた。 時候熟れとは、収穫して本漬したすぐきを家の軒下に置き、自然の気温で発酵させる技法である。この時候熟れの技法で生産すると、すぐきの食べごろは春から初夏になる。現在は雑菌の繁殖や気温の変化によりこの漬け方をすることはほぼない。

2009年05月30日

実成院

實成院(じつじょういん、文政4年1月18日(1821年2月20日) - 明治37年(1904年)11月30日)は、江戸幕府14代将軍徳川家茂の生母。名前は美佐(みさ)、操子。美喜、於美喜の方とも。

文政年間に御三家紀州藩の高家[1]松平六郎右衛門晋の子として生まれ、16歳のとき紀州徳川家に女中奉公に出され、紀州藩主徳川斉順(11代将軍家斉の7男)の側室となりその寵愛を受け、弘化3年(1846年)江戸赤坂の紀州藩邸で菊千代(のちの慶福・家茂)を生む。俗に「紀州蜜柑に種が有る」といわれる。しかし、そのときには既に斉順は没しており後継の徳川斉彊の命で、菊千代の養育のため剃髪預かりになる。斉彊が没し、菊千代が斉彊を継いで数え4歳で13代藩主となり、元服して慶福と名を改め家督を継ぐと落飾して実成院の院号を名乗った。
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安政5年(1858年)慶福が13歳で14代将軍徳川家茂として、江戸城に入ると、実成院も将軍生母として本丸大奥に入った。

将軍生母の住まいである新御殿には先代将軍家定生母本寿院が、御台所御殿には先代将軍家定御台所天璋院が居住していたため、実成院は七宝の間に居住した。それまで七宝の間に居を構えていた御年寄・瀧山は実成院の入居に伴い、七宝の間から鶴の間に移動した。文久2年(1862年)には仁孝天皇皇女で孝明天皇皇妹、和宮を家茂の正室として江戸城に迎え入れる。実成院は派手好きで、朝から酒を飲み、乱痴気騒ぎを起すことも有ったという。慶応2年(1866年)家茂が大坂城で21歳で没した後も江戸城に居住し、慶応4年(1868年)に官軍による江戸開城にともない静寛院宮(和宮)とともに田安家の屋敷に移った。

明治37年(1904年)に東京千駄ケ谷の紀州徳川邸において84歳で死去、寛永寺に本寿院と並んで葬られた。法名は実成院殿清操妙壽大姉。

2009年04月26日

800巻以上のヘブライ語

当時800巻以上のヘブライ語の宗教的文書が数百人の職業的筆記者によって書かれたことを考えると、死海写本はエルサレム神殿図書館から流出したものと考えられる。紀元70年にユダヤ戦争でエルサレム神殿がローマ軍攻撃により完全焼失したことを考慮すると、ユダヤ戦争前あるいは戦争中にエルサレム神殿から持ち出され、クムラン洞窟に隠されたと想像される。

一説によると、エルサレム神殿祭司たちはユダヤ戦争中、もしも戦争後ローマ軍が神殿に入り図書館を検査した際、ユダヤ戦争の発端となったユダヤ過激派たちに関連する文書が見つかると神殿の立場が危うくなると心配し、神殿図書館じゅうの過激セクト関連文書を集めて少人数に託し、神殿を脱出させたという見方がある。 (ナグ・ハマディ写本にも見られるように、古代ユダヤ教では、神の名が含まれた文書は、たとえ過激セクトによって書かれたもの、異端視されたものであっても、焼くことが禁止されていた。)

エルサレム神殿から山を東に降りヨルダン川に達すると東岸にはクムラン城塞(ユダヤ軍基地の一つ)がある。ここはエルサレム陥落後もしばらく持ちこたえた。写本を抱えた一行はクムラン城塞の軍人たちに文書保管を依頼したが拒否されたため、城砦の下ヨルダン川沿岸に無数にある大小の天然洞窟に写本を隠したのであろう。
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この仮説は、死海写本の年代や、非常に多様なユダヤ教宗派の信条や外典が集められている点などをうまく説明する。

この仮説が正しいとすると、エルサレム神殿祭司たちの心配にもかかわらず神殿、図書館、正統的ユダヤ教文書はユダヤ戦争によって完全に焼失し、異端文書のみが二千年間保存されたという皮肉な結果になる。正統的ユダヤ教文書はラビたちが所有していた聖書が現代まで伝承された。

「死海文書を書いて隠したのは誰なのか」という点に関しては、クムランに住んでいたエッセネ派の共同体だという見方が1990年代までは一般的だった。その他に、マカバイ(ハスモン)家によって神殿から追放されたザドク家の祭司達(サドカイ派)が率いる共同体だという見方も、徐々に受け入れられてきている。

1963年、ミュンスター大学の Karl Heinrich Rengstorf は、死海文書はユダヤ教のエルサレム神殿の図書館で書かれたという説を発表した。1960年代には、この説は多くの学者に拒否された。学者達は文書がクムランで書かれたという考えを維持し、他の場所から移されたとは考えなかったのである。しかし、1990年代にはノーマン・ゴルブなどの学者がこの説を復活させた。ゴルブらは、神殿の図書館だけでなく他の図書館でも書かれた可能性を付け加えた。

スペインのイエズス会の神父ホセ・オカラハンは、第7洞窟から出土した断片"7Q5"[1][2][3][4][5][6]が新約聖書のマルコによる福音書(第6章、52-53節)だと主張した。物議を醸したこの主張は、近年になってドイツの学者 Carsten Peter Thiede によって再び取り上げられている。マルコによる福音書の一節であるという主張が正しければ、この断片は現存する新約聖書の中でも最古の紀元後30年から60年のものとなる。

1990年代には、ヴァチカンが文書の公表を差し止めているという疑惑が発表された。特に、マイケル・ベイジェントとリチャード・リーは自著『死海文書の謎』(1992年、ISBN 4760108890)で、ロバート・アイゼンマンの憶測を一般向けに紹介した。憶測は次のような内容である。「いくつかの文書を実際に書いたのは、新約聖書に描かれた姿より原理主義的で厳格な初期キリスト教徒の共同体である。イエスの生涯はパウロによって神話的に歪められている。パウロは、その地域の反ローマのメシア主義的カルトの影響力を弱めるためにサウロから改宗した振りをした、ローマのスパイだった可能性がある。 ベイジェントとリーは、いくつかの主要な文書が数十年間に亘って意図的に隠されている、と主張する。なぜ隠されているのかというと、「文書はキリスト教に大きな影響を与えるものではない」という一般的な合意とは異なった、新しい説の出現を防ぐためだと言う。

死海文書は聖書の歴史にとって重要なものだと頻繁に書かれるため、文書について様々な陰謀説がささやかれる。例えば、死海文書の作者は地球外生命だ、といったもの。

2009年04月10日

ライカMシリーズボディー

ライカMマウントのレンジファインダーカメラ。ただしレンジファインダーを搭載しない機種もある。フランジバックは27.8mmとバルナック型と比較してちょうど1mm短く、1mm厚のアダプターを使用しライカLマウントのレンズも使用できる

ライカM3(Leica M3 、1954年) - 1954年のフォトキナで発表された。新型のMマウントを備えバヨネット式にて迅速なレンズ交換が出来、50mmのファインダー枠が常時表示され、装着したレンズに従って90mm、135mmのファインダー枠が自動で表示される。ファインダー枠はパララックスを自動補正する。ファインダーは等倍とする資料も多いが0.91×である[6]。レチナ式のレバー巻上により迅速に巻上できる。一軸不回転ダイヤルを備えて迅速にシャッター速度が設定できる。裏蓋が一部開き、フィルム装填が迅速簡単になった。スプールを抜くとフィルムカウンターは自動で復帰する。広角レンズを使用する際は焦点距離35mmのレンズにある「眼鏡付き」のレンズを使用するか、外付ファインダーを使用する。当初は「2ストローク」と呼ばれる二回巻き上げ方式、シャッタースピードは国際系列の11スピードであった。1955年シリアルナンバー785801から手動でブライトフレームを選択できるレバー[7]が付き、1957年シリアルナンバー854001から倍数系列の12スピード、1958年シリアルナンバー919251以降「1ストローク」と呼ばれる一回巻き上げが可能になっている[8]。
ライカMP(Leica MP 、1956年) - ピストルレバー式のラピッドワインダー「ライカビットMP」を備えるライカM3の特殊型。元々アルフレッド・アイゼンシュテット、デビッド・ダグラス・ダンカンら有名報道カメラマンのリクエストに応じて開発され後に市販されたが数が約450台と少なく珍品である。後に単体発売されたライカビットMPはライカM2、ライカM1には装着できるがライカM3には装着できない。セルフタイマーが省略されている。

ライカM2(Leica M2 、1958年) - 35mm、50mm、90mmのファインダー枠を備える。これに伴いファインダー倍率は0.72×に低下し、それに伴い有効基線長も51.4mmに短くなっている。フィルムカウンタ−が手動。ライカM3の廉価版とも言われたが実際にはあまり価格は変わらず、一般には広角型として扱われた。以降ほとんどのモデルのファインダーはライカM2のファインダーを基本とする。当初セルフタイマーは装備されなかったがシリアルナンバー949101からアメリカ向けには装備されるようになり、1960年シリアルナンバー1004151からは全数が装備した。ライカビットMPが使用できる。
ライカM2-R(Leica M2-R 、1966年発売) - ライカM2末期にラピッドローディング機構を組み込んだマイナーチェンジ型。軍艦部にある機種名は「M2」のみ刻印された個体と「M2-R」と刻印された個体がある。アメリカ軍KS15-4として製造されたがキャンセルになり市場に流れて話題になり、後にニューヨークライツがドイツ本社に同じ物を発注した。
ライカMP2(Leica MP2 、1958年発売) - ライカM2にフィルム巻き上げ用モーターを組み込んだモデルで製造台数約27台。連射性能は3コマ/秒セルフタイマーが省略されている。
ライカM1(Leica M1 、1959年発売) - ライカM2から距離計とファインダーセレクターレバーを除いたもの。ファインダー枠は35mmと50mmで両方が常時表示される。パララックス自動補正。セルフタイマーは装備しない。製造台数9650台。ライカビットMPが使用できる。
ライカMD(Leica MD 、1963年発売) - ライカM1からさらにファインダーを除いた機種、バルナックライカで言えばI系列であるが、大きさはライカM2と変わらない。画面の端にデータ記録用のスリットが設けられている。Dはドキュメンテーションのイニシャルという。
ライカMDa(Leica MDa 、1966年発売) - ライカMDの後継機種でありベースがライカM4になっている[9]。フィルム巻き上げレバーが万能複写装置IIa型と干渉するという理由ですぐにライカM2と同型にされた。画面の端にデータ記録用のスリットが設けられている。
ライカM4(Leica M4 、1967年6月発売) - ファインダ−は基本的にライカM2を踏襲したが135mmのファインダー枠も装備された。装着されたレンズに従って自動で35/135mm、50mm、90mmの枠を切り替える。巻上レバーにプラスチック製の指当てがつき、巻戻はクランクに改良されたライカメーターMR装着時でも楽に巻き戻せるよう斜めに取り付けられている。。ボディー色は当初はクロームと、少数の焼付ブラック、西ドイツ軍向けに31台のみ生産されたオリーブがあった。ライカM5の不評を受けてカナダライツにて再生産された製品はボディー色がブラッククローム。裏蓋を開くとフィルムカウンターが自動リセットされる。1975年に50周年記念モデルが1750台生産された[10]。
ライカM4-M(Leica M4-M 1968年発売) - ライカM4をニューヨークライツが発売したモーター装着対応とした型。対応するためラピッドローディング機構は外された。軍艦部の刻印は「M4-M」と「M4-MOT」がある。
ライカM5(Leica M5 、1971年発売) - TTL露出計を装備する。それまでの端正なデザインを壊した大型のカメラで「弁当箱」と揶揄され発売当初は不人気だったが、製造中止後しばらく経ってから人気が出た。異形に見えるがファインダー系は以前のものを踏襲している。50周年記念モデルが1750台生産された[11]。露出計受光部はレンズ装着を感知してフィルム前面に降りて来て、シャッターレリーズすると上がる。
ライカCL(Leica CL 、1973年発売) - 提携先であったミノルタからのOEM。機能的にはライカM5を小型軽量化したもの。日本ではライツミノルタCLとして販売された。後継のミノルタCLEはOEM化されなかった。ドイツ国内では999マルクで販売され雑誌などで「1000マルクを切った最初のライカ」として宣伝されていた。露出計受光部はフィルムを巻き上げるとフィルム前面に降りて来て、シャッターレリーズすると上がる。1975年に50周年記念モデルが3500台販売された[12]。
ライカM4-2(Leica M4-2 、1978年発売) - 1974年ウィルドへの売却に伴う混乱の中、1976年のフォトキナで発表された。ライカM4のマイナーチェンジモデルで、ホットシューが装備されセルフタイマーが省略された。ライカワインダーM4-2が使用できる。
ライカMD-2(Leica MD-2 、1980年発売) - 1976年発表。ライカMDaの後継機種でありベースがライカM4-2になっている。画面の端にデータ記録用のスリットが設けられている。
ライカMD-22(Leica MD-22 ) - 1976年ライカMD-2と同時に発表された。ライカMD-2のハーフ判仕様。カタログに記載されコードナンバーも与えられていたにも拘らず発売されず、その後試作品さえ確認されていない。
ライカM4-P(Leica M4-P 、1981年発売) - 1980年のフォトキナで発表された。28ミリと75ミリのファインダー枠が加わり、装着されたレンズに従って自動で50/75mm、28/90mm、35/135mmの枠を切り替える。組み合わされるワインダーは当初ライカワインダーM4-P、後にライカM6と共用のライカワインダーM。
ライカM6(Leica M6、1984年発売) - 1984年フォトキナで発表。ライカM4時代のデザインのままTTL露出計を組み込んでいる。すなわちライカM5発売時のクレームにようやく応えた形となった。
ライカM6J(Leica M6J、1994年発売) - 1994年フォトキナで発表。ライカM3発売40周年を記念して1640台が生産された。外観はライカM3に似せてあるが巻き戻しは斜めクランク。露出計もライカM6と同様装備する。ファインダーはライカM3の0.91×でもライカM2からライカM6まで使用されて来た0.72×でもない0.85×。ファインダー枠は35/135mm、50mm、90mm。
ライカM6 0.85(Leica M6 0.85 、1998年発売) - ライカM6のファインダーを0.85×にした。ファインダー枠は35/135mm、50/75mm、90mm。
ライカM6TTL(Leica M6TTL 、1998年発売) - TTLフラッシュに対応した。

ライカM7(Leica M7 、2002年発売) - 絞り優先AEを装備した電子シャッター機。
ライカ新MP(Leica MP 、2003年発売)
ライカM8(Leica M8 、2006年発売) - M型初のデジタルカメラ。金属幕・縦走りシャッター機。

ライカM8.2(Leica M8.2 、2008年発売) - M8をベースに静粛になった金属幕・縦走りシャッターを搭載(ただし最高シャッタースピードはM8の8000分の1秒から4000分の1秒に低下した)。背面液晶カバーにサファイア硝子を使用。

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2009年03月26日

脆弱性を突いた荒らし

2007年4月15日頃より、DoS攻撃など、なんらかの攻撃ツールを使った攻撃により、わずか三日ほどで動画再生回数が数百万・うちコメント数万数千(コメント数に対して異常に再生数が多い)という事態に見舞われたため、再生回数とコメントがリセットされた動画が存在する。

同時期には、投稿時URLを用いるバグフィクスを突いた投稿動画の異常増殖・重複投稿事件が発生しているが、これらのような不正な行為を行うとアカウント削除の対象になると運営側は警告している。しかしながら、仮に対象のアカウントを削除したとしても、同一犯が別アカウントを作成・使用することが現時点では可能なため、上記の原因による運営側がそのユーザーに対しアクセス禁止処分をとった例は開設当初から一度もなく、対象の処罰の対象および処分等を明記した利用規約上にすら存在していないことも重大な欠陥であるという指摘も多い。

コメントの削除
運営者が運営上問題があると判断した場合、コメントの削除が行われる場合がある。

悪質なユーザーには、動画の下に設けられた「不適切なコメントを通報する」というリンクから「削除依頼掲示板」にアクセスすることができ、問題のあるコメントの削除を依頼することができる。削除依頼掲示板には原則としてコメント削除などの権限を持ったスタッフ(ひっそり削除人というハンドルネームを持っている)が常駐しており、早ければ掲示板への書き込みから5分程度の短時間で対処される。また、特定のユーザーへの処分などを要請すれば運営の手によってコメント機能を一時的にあるいは長期的に停止させることができる。この機能は荒らし行為ばかりでなく「死ね」等といった誹謗中傷コメントや不適切なタグにも対応することができる。

また、動画の投稿者は「コメント編集」の権限を持っており、任意のコメントを非表示(事実上の削除)にすることができる。ただし、運営者による削除とは違い、コメントデータに非表示のフラグが立つだけなので、あくまで動画プレイヤー上において非表示になるだけである。そのため、一度非表示にしたコメントを元に戻したり、サーバから受け取る生のテキストデータを見ることで非表示にされたコメントの内容を参照したりすることができる。

なお、タグを使っての荒らしは、その傾向上、コメント以上に対応が難しい。またタグは、荒らしのみならず心理を表すものとした様々な使い方もあるため、決して一様には出来ない難しい側面もある。

機能の変遷

RC2から
ニコニコ割り込み
略称は「ニコ割」。動画を視聴しているユーザーに対し、運営側が別の動画を割り込ませるいうもの。動画再生部分の上にある「ニワニュース情報局」の部分を使い放送を行う。現時点では、後述の「時報」が内容のメインとなっているため、「ニコ割」よりも「時報」という呼び名が普及している。
現在は午後7時、午前0時、午前2時、金曜の午後11時になるとドワンゴによるナレーションつきの時報、ならびに深夜0時には荒らしに対する啓発や、動画のアップロードやマイリストの使用を促進するメッセージ(公共広告機構をパロディにした『公共コメント委員会』名義のCM)、およびスポンサー広告(2007年11月25日より開始)が流れる。視聴中の割り込みは強制(ランキングやメイン画面は含まれない)で、一時的に動画の再生が停止し、コメント入力もできなくなる。
時報では、「午前0時ぐらいをお知らせします」といったメッセージとともに、時刻のカウントが行われる。しかし、時報の開始時間はその時刻ちょうどを過ぎてから始まるので、「ぐらい」という言葉が示すとおり、実際にはカウントの時点で20?30秒ほど過ぎている。
RC2開始前日の「テスト放送」や開始直後は、しばらくは物珍しさに面白がるユーザーが多かったが、慣れてくるにつれて「再生中の動画が突然停止しコメントできなくなる」ことに不満を覚えるユーザーが増えコメントで「時報うざい」などと表示されることが増えつつあるため、評判は賛否両論であるが、好意的に受け止められる例は減少傾向にあるともいえる。広告やニコ割ゲームの導入より、時報そのものが長くなる傾向にあり、広告に興味の無い、一刻も早く動画の続きを見たいユーザーにとっての不満の種として上がるケースが増えつつある。ページの再読み込みを行えば時報を強制的に終了させることも可能だが、再生中の動画は最初から閲覧することになってしまい、時報が流れている途中で何らかが原因で起こる回線切断が起こると最悪の場合ストリーミングエラーを起こし動画の続きを見ることができなくなってしまう問題も確認されている。
2007年12月31日は、あらかじめ「23時55分から元旦0時2分」の間サービス停止が告知され、23時55分より5分半にも及ぶ時報が流された。内容は2007年12月に時報を協賛した格闘技イベント「やれんのか! 大晦日! 2007」の映像演出に合わせたもので、その源流となる格闘技イベント「PRIDE」のテーマソングが流れる中、年末を締めくくる挨拶、ニコニコ動画の歴史、スタッフロール、新年のカウントダウン、新年の挨拶で構成されていた。新年のカウントダウンはやはり30秒ほどずれており、年が明けてから「5ぐらい、4ぐらい、3ぐらい、2ぐらい、1ぐらい!」と「ぐらい」付きでカウントされた。このカウントダウンはPRIDE、やれんのか!でリングアナウンサーをつとめる声優の太田真一郎が行った。
2008年3月4日は、SP1開始前の日であり新機能のテストとして、予告なしに動画表示領域とニワニュース情報局の部分を用いた「もぐらたたき」を行った。それ以降もこのようなゲームを「ニコ割ゲーム」として通常水曜日午後9時25分から放送している。参加型の企画であるためユーザーが完全に受け手側となる時報に比べると批判は比較的少ないものの、視聴を妨げる点では前者と同じであり否定的な声も少ないわけではない。
2008年3月4日24時の時報は、通常のものとは違い、動画表示領域の上に被さる形で表示された。「ニワニュース情報局」の領域はそのままで、時報中はニュースのテキスト部分が表示される部分に、時報の中で宣伝したCDの歌い手の名前が表示された。
2008年4月30日24時の時報から、最初の「ニコニコ動画」の部分が、初音ミクからGackt・がくっぽいどの声に変更された。
2008年6月頃の時報から、フォーマットが変更された。
従来:ニコニコ動画→広告→時報→公共コメント委員会(→提供)
新フォーマット:ニコニコ動画→広告・公共コメント委員会(→提供)→時報 (※広告があるときは、コメント委員会なし。)
2008年12月31日は、昨年と同様に、ニコニコ動画の営業を、約10分間休止し、その間に大エンディングを(時報にて)行うと、12月4日のニコニコ大会議で発表された。
投稿者専用コメント
自分が投稿した動画に対し、投稿者自身が特別なコメントを付けることができる。投稿者専用コメントは、通常のコメントと区別され、コメント表示数を超えても表示されなくなることがなく、表示期間を設定することも可能である。投稿者専用コメントが使われている動画は当初、プレミアム会員と動画投稿者のみが視聴できたが、現在は一般会員も視聴できる。
コメント編集
自分が投稿した動画に対し、投稿されたコメントを非表示にすることができる機能。
NG設定
特定の言葉を含んだコメントや、特定のユーザーが書き込んだコメントを非表示にすることができる機能。表示したくない言葉、暗号化されたユーザーIDやコマンドを設定(両者の合計で最大20件、プレミアム会員は最大100件)することで、設定した言葉を含むコメント、特定のユーザーのコメントを非表示にすることができる。コメント非表示とは違い、自分が不快に思うコメントのみを非表示に出来るというメリットがある。しかし一部の利用者のマナーの悪化に伴って登録したNG設定が一般会員を中心にすぐに上限に達してしまう例があるため、登録上限数の不足を指摘する声も増加傾向にある。
フィルター
自分の投稿した動画に書き込まれた特定の単語を、ユーザーが任意で設定した他の単語に置換(例:「田中」→「佐藤」、「u」→「ウッ-ウッ-ウマウマ」など)することができる機能。
ニコスクリプト
投稿者・利用者共に使用できる「ニコスプリプト」が搭載されている[7]。この機能を使うことで、コメント機能を使った投票を行ったり、動画の一部に穴を空けてコメントで動かすことができるなど、コメント機能を使った遊びなどが実現できる。

バク転 ルーシュ ハーブ シニカ テンペラ オーソー スラウ タナトス パンヤゾ いす 夢のカケラ コテージ リターン シーバー ディズム 不死鳥 パドボ 無邪気 アニン シノプシ クリア ラック 君の左手 ライム テストケー ダラス バイア ツルグミ めじり パントモ ニュー ニング エカナ ルノワー シング スカイブル マルメロ パジャマ こむぎ ズボン ウエハース きょうりん ステラ リレー きんかん ドレナ スキーリ パラメデ ローフ アイスティー

2009年03月10日

ウマウアカ

ウマウアカ またはウマワカ(Humahuaca)はアルゼンチン北部のフフイ州 (Jujuy)にある町。1591年にフアン・オチョア・デ・サラテ (Juan Ochoa de Zárate)により作られた。インディオの言葉である「オマグアカ (omaguaca)」が町の名前の由来であるといわれる。

かつての植民地時代の名残である、教会や役場や独立記念碑などが町を特徴づけている。石畳の街道や街灯、赤茶けた泥レンガの家の壁も植民地時代のまま残っている。
ラージヒル ニズム グアナコ キナパー レール ソング ジョッキー ロール ヒアシン オイヒバ アース ピーピーシー ダイエ バッグ リプレース おたま キング アルタイ キング マネキ ぴんぞろ エッジ プロテク ニバナ ヒッチハイ ひこうき ハバネロ ハムエ てんえい プリオン 相合傘相 マッサ ヤダケ ビネガー ファンド イヌイッ モルドバ コマソン カートン てんま りゅうちょう アラス マヌカン アナカン セフレ デビュー スリッペ ノンプロ ライトノ たいむ

この町の最大の行事は、8日間も続くカーニバルである。ウマウアカのカルナバルを歌ったフォルクローレ、エル・ウマウアケーニョ(ウマウアカから来た男もしくはモノ)は、アンデスのフォルクローレの中でも特に有名な曲の一つである。 町の観光名所はウマウアカの谷である。

ウマウアカの谷 (Quebrada de Humahuaca)は、アルゼンチン北部のフフイ州にある、河川浸食によって出来た深く狭い渓谷である。

この渓谷はパラグアイ川の支流の一つであるリオグランデ (río Grande)により形成された。東部山脈地帯に位置する。南北に延びており、北に行くほど標高は高くなる。スペイン侵略以前より、アンデス高地との交通の要所であったと思われる。

この谷には、荒漠とした見事な景観があり、南北に点在する文化的に貴重な遺産が残されている。七色の丘 (Cerro de los Siete Colores)、マイマラ (Maimará)、ティルカラ (Tilcara)、ウマウアカなどで有名なプルママルカ (Purmamarca)はその代表的な例である。

冬期が乾燥してさわやかな気候であり、訪れるには最適の季節である。

2009年02月22日

ノシロ語(のしろご、NOXILO)

ノシロ語(のしろご、NOXILO)とは、水田扇太郎によって発案された人工共通語案。 「SOV・SVOの2つの文型の併用が可能である」ということを売り文句としている。(併用といっても同じ文章内での併用はできず、話者がSOVまたはSVOの語順を選択できるという意味である。)
フィルター ダミー ドライブイ とっこ クーガー ミズム ソリッド カカオ ゲルサンド ザ・サボイ ソケット ジュート デイオ シェークス 澪標恋 フォーラ フーディア 自由の幻想 スペアリブ オーバー スペイン ピーエル スポッタ サチュ レンツェ リベラル インダー かえる ロウバ パイロ メーン フォックス ブラック シロヤ ブロー パトロー フラダンス タイボ ドジェ ひらない ちょうらく ニワウメ テディ コールド マナイ ザック ローブロ デーション ソール フライ

ノシロ語は以下のような言語だとされる。

SOV・SVOの2つの文型の併用が可能である。(同じ文章内での併用はできず、話者がSOVまたはSVOの語順を選択する。)
人工言語であるため無駄な変化や古い文化の踏襲も無い。
ノシロ語は21世紀の人工国際言語であり、同じ人工言語であるエスペラント語と目的はほぼ一致している。
ノシロ語がエスペラント語と異なる点はエスペラント語がヨーロッパ発でヨーロッパ系の人々に圧倒的有利であり不公平、不平等な人工言語とされているのに対し、ノシロ語は日本発で世界中の人々に、ほぼ平等であることを目指して作られた。
ノシロ語は平成元年(1989年)頃から考案がはじまり、平成9年(1997年)に泰流社から書籍「ノシロ -- 日本で生まれた共生時代の国際簡易言語」ISBN 4-8121-0221-9(現在は絶版)の発売とホームページでの発表がはじまる。
発音、文法、単語、文字などの面で選択肢が多い。
発音は日本語のカタカナの発音でも良く、英語のような閉音節の発音でもよいとされる。
単語は約300個のノシロ基本単語と約4000個のノシロ友好単語と約9000語(2008年9月16日現在)のノシロ国際標準単語があるが、これらのノシロ語の単語を覚える必要はなく、使用者の母語の単語や世界各国語の単語を使ってかまわないとされる。
ノシロ友好単語は広く東西の諸言語 (中、印、英、仏、日、独、韓 、露、タイ、アラビア、ケチュア ...) から採用してある。
発案者によると特定の言語圏の人だけが有利になったり不利になったりする不平等は殆ど無いとされる。
欧米至上主義、人種差別、男尊女卑の思想が全く無く、短い学習時間で習得が可能とされている。
各国語に正確に翻訳できる言語としてもアピールされていて、ノシロ語を利用すれば常時100%の翻訳精度を実現できる 国際携帯電話やメールソフトを作ることも可能だとされる。
文字はローマ字を用いて記述されるが、独自に考案されたノシロ文字で記述することも可能であり、コンピュータ用のノシロ文字フォントも作成されているらしいが公開されていない。

ノシロ語の実際
このように発案者によると大きな利点がある言語とされているが、現時点ではノシロで書かれた文章は極めて短い例文しか見ることができずノシロ文字についても使用例がない。従って、現在の話者の数はほぼゼロだと思われる。また、ノシロ語の使用例が皆無に等しいことから作者自身も話者でないと思われる。作者自身、ホームページの一部をノシロ語で書いたり、ノシロ語で何かの簡単な説明をした経験が全くない。

それにも関わらず、作者はノシロ語を最先端の学術論文や国際条約文まで難なく処理してしまう21世紀の人工国際言語と謳い、EU(欧州連合)のための言語、AU(アジア連合)のための言語という(実際にはAUは「アジア連合」などではなく、「アフリカ連合」なので作者のいうアジア連合は{今のところ}架空の団体でしかない)。

作者はEUがノシロ語を採用する前提で「ノシロ語はアジアからヨーロッパへの歴史的なプレゼントです。」とも発言している。EUもAUも全くノシロ語の採用を決めていないどころか検討すらしていないと言うか、恐らくノシロ語の存在自体知らないので作者の発言と現実が一致していない。

また、実際にノシロ語が国際共通語として採用される確率は非常に低いとも考えられる。ノシロ語は

音韻が日本語の影響を強く受けている(例えば「閉音節に末母音"u"を加えて発音しても良い」とあるが、閉音節の後ろに"u"を加える、或いは「加えても良い、どちらでも良い」というのはあくまでも日本人の感覚でしかない。閉音節が大脳の言語中枢に染み付いている西洋人や韓国・朝鮮人等には理解不能な概念である。また、閉音節の外来語に対して、末母音"a"を挿入する言語も存在する。)
様々な自然言語から単語を採用しているため、響きが統一されておらず、人間の使う言語としては異様である。例えば、エスペラントは単語を主に、互いに似た音韻、響きを持つ西欧の言語から採用しており、語形にもある程度手を加えてあるので、響きがだいたい統一されている(エスペラントの響きはややイタリア語に近い)。それに対し、ノシロはほぼ世界中の、それも互いに全く違った音韻、響きを持つ言語から採られている。
考案者によると習得が簡単な言語とされているが、語彙の選択肢が無限にあるため一生をかけても習得が不可能な世界一難しい言語だといえる。
自然言語から採った単語の発音が、原音から大きく外れていることが多い。(例えば、"BUF"[bu:fまたはbu:fu](本)という単語はドイツ語のBuchから採ったものであるがch[x]の部分の発音が[f]になっている。日本人にとってはどちらも「フ」に近く聞こえても、音声学的には[x]と[f]は全く別の音である。)
大文字を多く使用するため、手書きの際、書きにくいなどの不都合が生じる。また、文字としても見苦しく、違和感があり、ある程度慣れないと読みにくい。
・・・など、人間が話す言語としては非現実的であると考えられる。

ノシロ語は個人がインターネットを利用して自由に情報を発信できることから起きる問題点を考えさせてくれるという見方もあり、言語学的な見地からではなく、ウォッチング、あるいは一種のジョークとしての「ノシロ語ファン」が存在する。

ノシロ語はインターネット上でも様々な議論が展開している。世界語として今後どのような形で消滅するかは分からないが、エスペラントに続き様々な試みが今でも続けられている。

2009年02月06日

江藤 新平

江藤 新平(えとう しんぺい、天保5年2月9日(1834年3月18日) - 明治7年(1874年)4月13日)は、日本の武士(佐賀藩士)、政治家。幼名は恒太郎・又蔵。諱は胤雄、号は南白。朝臣としての正式な名のりは平胤雄(たいら・の・たねお)。
はにー ファイバ ていん| ジェス オフス たけざお おはじき 一等星 アップ ファー イコノロジー プロテイ ローカル シンプ けん蔵 フリース メモリー はこだて マルチ パルプ シェーバー トライアン ミンク ブティッ 翠の月 ゲスロ コピペ シエラ ネガティブ ずいき ゼンマイ きない トロッ デニール プロデビー ハネム オフタ リヤカー ドーミー カーウォ ボーイ 三和音 ゾル ぎぼう 大逆転 小さい魔女 ソダラ 夢列車 ゴスロ マジッ

出生
肥前国佐賀郡八戸村(現在の佐賀県佐賀市鍋島町)に佐賀藩士 江藤胤光・浅子の長男として生まれる。江藤家は肥前小城郡晴気保の地頭千葉常胤の末裔を称する。父は「手明鑓」という身分の下級武士であったとされる。嘉永元年(1848年)に藩校の弘道館へ入学し、内生(初等中等)課程は成績優秀で学費の一部を官給されたが、父が職務怠慢の咎により郡目付役を解職永蟄居の処分となったため生活は困窮し、外生課程に進学せずに弘道館教授で儒学・国学者であった枝吉神陽の私塾に学び、神道や尊皇思想に影響される。このころ江藤は窮乏生活を強がって、「人智は空腹よりいずる」を口癖にしたという。

江戸時代後期の外国船の日本近海への出没や、アメリカのペリー艦隊やロシアのプチャーチン艦隊などが来航して通商を求めるなどの時勢の影響を受け、安政3年(1856年)には意見書である『図海策』を執筆する。大隈重信・副島種臣・大木喬任らと義祭同盟を結成する。安政4年(1857年)に結婚。藩の洋式砲術、貿易関係の役職を務める。

志士活動
文久2年(1862年)に脱藩し京都で活動し、長州藩士の桂小五郎(木戸孝允)や公家の姉小路公知らと接触する。2ヶ月ほどで帰郷し、通常脱藩は死罪であったが、江藤の見識を高く評価した藩主鍋島直正の直截裁断により永蟄居(無期謹慎)に罪を軽減されたとされる。蟄居後は寺子屋師匠などを務め、同士との密かな交流や、幕府による長州征伐(幕長戦争)での出兵問題では藩主直正への献言を行うなど政治的活動は続けている。

15代将軍徳川慶喜が大政奉還を行って幕府が消滅した慶応3年(1867年)の12月に江藤は蟄居を解除され、郡目付として復帰する。薩摩藩、長州藩は公家の岩倉具視と結び明治元年(1868年)の王政復古の大号令を行い、新政府が誕生すると佐賀藩も参加し、江藤は副島種臣とともに京都に派遣される。

戊辰戦争で江藤は征東大総督府軍監に任命され、土佐藩士の小笠原唯八とともに江戸へ偵察に向かう。薩摩藩の西郷隆盛と幕臣の勝海舟の会談で江戸城の無血開城が決定するや、江藤は城内の文書類を接収する。さらに京都へ戻り、大木喬任と連名で岩倉に対して江戸を東京と改称すべきこと(東京奠都)を献言する。旧幕臣らを中心とする彰義隊が活動していた問題では大村益次郎らとともに討伐を主張し、軍監として上野戦争で戦い、彰義隊勢を上野寛永寺周辺に追い詰め、さらに佐賀藩のアームストロング砲を遠方射撃する戦術などにより彰義隊は瓦解する。明治2年には、維新の功により賞典禄100石を賜っている。

明治新政府の官吏として
戊辰戦争が一段落した新政府が設置した江戸鎮台においては、長官の下の6人の判事の1人として会計局判事に任命され、民政や会計、財政、都市問題などを担当する。7月には江藤の献言が通って明治天皇が行幸して、江戸は東京と改称される。明治3年(1870年)1月には佐賀に帰郷して着座(準家老)に就任して藩政改革を行うが、後に中央に呼び戻され、同年11月に太政官中弁となる。12月、虎ノ門で佐賀藩の卒族に襲撃されて負傷する。明治4年(1871年)2月には制度取調専務として国家機構の整備に従事し、大納言岩倉に対して30項目の答申書を提出する。近代的な集権国家と四民平等を説き、国法会議や民法会議を主催して民法典編纂に取り組む。

文部大輔、左院副議長、司法省が設置されると明治5年(1872年)には司法卿、参議と数々の役職を歴任。その間に学制の基礎固め・四民平等・警察制度整備など近代化政策を推進。特に司法制度の整備(司法職務制定・裁判所建設・民法編纂・国法編纂など)に功績を残す。政府内における急進的な民権論者であり、「牛馬ニ物ノ返弁ヲ求ムルノ理ナシ」として牛馬解放令とも呼ばれた司法省達第二十二号(娼妓解放令)、民衆に行政訴訟を認めた司法省達第四十六号などが知られる。また官吏の汚職に厳しく、新政府で大きな力を持っていた長州閥の山縣有朋が関わったとされる山城屋事件、井上馨が関わったとされる尾去沢銅山事件らを激しく追及、予算を巡る対立も絡み、2人を一時的に辞職に追い込んだ。

だが、その一方で欧米的な三権分立の導入を進める江藤に対して、行政権=司法権と考える伝統的な政治的価値観を持つ政府内の保守派からは激しく非難された。また急速な裁判所網の整備に財政的な負担が追いつかず、大蔵省との確執を招いた。

下野から佐賀の乱まで
明治6年(1873年)には朝鮮出兵を巡る征韓論問題から発展した明治六年政変で西郷隆盛・板垣退助・後藤象二郎・副島種臣と共に下野後、明治7年(1874年)1月10日に愛国公党が結成され、同12日民撰議院設立建白書に署名。

副島、後藤らの帰郷を思いとどまるようにとの説得にもかかわらず、翌13日に離京。すぐには佐賀へ入らず、2月2日、長崎の深堀に着き様子を見る。2月10日、佐賀へ向い、翌11日、憂国党の島義勇と会談を行い、翌12日、佐賀征韓党首領として擁立された。そして、政治的主張の全く異なるこの征韓党と憂国党が共同して反乱を計画することとなった[1]。

2月16日夜、憂国党が武装蜂起し、士族反乱である佐賀の乱が勃発する。佐賀軍は、県庁として使用されていた佐賀城に駐留する岩村高俊の率いる熊本鎮台部隊半大隊を攻撃、その約半数に損害を与えて遁走させた。

しかし、やがて大久保利通の直卒する東京、大阪の鎮台部隊が陸続と九州に到着した。佐賀軍は、福岡との県境へ前進して、これら新手の政府軍部隊を迎え撃った。政府軍は、朝日山方面へ野津鎮雄少将の部隊を、三瀬峠付近へは山田顕義少将の部隊を前進させた。朝日山方面は激戦の末政府軍に突破されるが、三瀬峠方面では終始佐賀軍が優勢に戦いを進めた。また、朝日山を突破した政府軍も、佐賀県東部の中原付近で再び佐賀軍の激しい抵抗にあい、壊滅寸前まで追い込まれている[2]。が、政府軍は司令官の野津鎮雄自らが先頭に立って、士卒を大いに励まし戦い、辛うじて勝利を得るのである。この後も田手、境原で激戦が展開されるが、政府軍の強力な火力の前に佐賀軍はついに敗走を余儀なくされた。

江藤は戦場を密かに脱出し、鹿児島に隠棲中の西郷、高知の林有造、片岡健吉のもとを訪ね武装蜂起を説くが、いずれも容れられなかった。このため、岩倉具視への直接意見陳述を企図して東京への上京を試みる。しかし、その途上、現在の高知県安芸郡東洋町甲浦付近で捕縛され、佐賀へ送還されてしまった。手配写真が出回っていたために速やかに捕らえられたものだが、この写真手配制度は江藤自身が明治5年に確立したもので、皮肉にも制定者本人が被適用者第1号となった。江藤は急設された佐賀裁判所で、司法省時代の部下であった河野敏鎌によって裁かれ、処刑・梟首された。享年41。ここで行われた判決「除族の上、梟首」は、江戸時代の旧法、明治時代の新法にも先例の全く無いものであった。なお、梟首された際の写真は全国の県庁に掲示された[要出典]。

辞世「ただ皇天后土の わが心を知るのみ」。

明治22年(1889年)、大日本帝国憲法発布に伴う大赦令公布により賊名を解かれる。

墓所は佐賀県佐賀市の本行寺。同市の神野公園には銅像もある。

子孫
新平の長男は早世したが、次男・新作は成人してのち佐賀県選出の衆議院議員となり犬養毅の側近として活躍、アジア主義団体である東亜会およびその後身たる東亜同文会の結成に参加したほか、亡父の遺稿を整理・編纂し『南白遺稿』として刊行した。

2009年01月22日

人道に対する罪

人道に対する罪(じんどうにたいするつみ、英: crime against humanity、仏: crime contre l'humanité)は、「国家もしくは集団によって一般の国民に対してなされた謀殺、絶滅を目的とした大量殺人、奴隷化、追放その他の非人道的行為」として第二次世界大戦後のBC級戦犯(横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷)とニュルンベルク裁判に初めて適用された犯罪概念。現在ではジェノサイド、戦争犯罪とともに「国際法上の犯罪」(crimes de droit des gens) を構成する。戦時、平時に拘わらない。
ババロア フィラン マッチン ビジネス ハワイ ヒューズ ダグアウト マルチ プレムハブ スノーフ 流星群 にんきょう ミステ ぶんぶん ブラテ ハイヒール シングル ラバト ブルンジ バックオ ナッソー トラン ラムサー 鈴蘭 セラセラ つるみ マルセイ コピーイノ ゲーター ブラッド トパイ バーバレ パブリ レベニュ フォーム メタ いささや ハイウエイ ダルトン ハリアー ビーコン ガター サイドカー あぼがど ジンセン スプリング ユリノ ジャーゴン アニムス ビッドレ

アルメニア人虐殺問題に対する1915年の英仏露共同宣言中でその概念が初めて登場した。また、第一次世界大戦の戦勝国(日本を含む)は、ドイツを人道の罪でも裁こうとしたが、ドイツ皇帝の逃亡により実現しなかった。そのため、第二次世界大戦中に慣習国際法上確立していたとはいえなかった。 第二次世界大戦後、連合国は当時のジュネーヴ条約等では戦争犯罪人と同じ国籍を有する被害者を保護できないと考え、人道に対する罪を個人の戦争犯罪として定義した。(法の不遡及の原則に反するとして批判を受ける。)[1]

1993年、国連安全保障理事会が設置した旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷では「国際又は非国際武力紛争において犯された人道に対する罪」として規定し、「一般住民に対して行われた、殺人、殲滅、奴隷化、強制移送、拷問、強姦、政治的・宗教的理由による迫害などが人道に対する罪に該当する」としている。

また、国際刑事裁判では1994年のルワンダ国際戦犯法廷においても人道に対する罪を処罰対象にしている。

1998年にはローマ会議において、国際刑事裁判所規程(ローマ規程)が採択され、署名期限までに139カ国により署名が行われた。その後、批准国数の要件が満たされ、2002年7月1日、オランダのハーグにて常設の国際刑事裁判所(ICC)が動き出すこととなった。そして、国際刑事裁判所規程第7条[2]に基づき、現在、人道に対する罪(規程では「人道に対する犯罪」)はこの裁判所の管轄事項となっている。

ジェノサイド条約の集団殺害罪とは構成要件を異にする。すなわち客体は「一般人たる文民」であり、また意図に関する要件(集団の全部または一部を破壊する意図)はない。(ジェノサイドの項目も参照のこと。)

人道に対する罪に関する主な事件・出来事
東欧におけるポグロム
アルメニア人虐殺問題
ナチスのT4作戦
1933年 - 1945年 ドイツ(ナチス)によるユダヤ人、ポーランド人その他に対する行為(大量殺害など)。
1931年 - 1945年 日本軍による同国籍の住民や捕獲された者に対する行為(殺害など)[3]。
1942年 大日本帝国による花岡事件。
1941年 - 1945年 アメリカ合衆国での日系人に対する行為(強制収容)。
1932年 - 1933年 ソ連によるウクライナ人のホロドモール。
ソ連による沿海州の高麗人・ドイツ東部(東プロイセン、シュレジエン等の旧ドイツ領。東ドイツではない)のドイツ人、チェチェン人などの西トルキスタン諸国への強制移住。
中華人民共和国における少数民族の労働改造所への強制収容。
中華人民共和国における少数民族の漢族との通婚の強制。
1948年 - 1950年 イスラエルによるパレスチナ住民(アラブ人)に対する行為。
1950年 - 現在 中華人民共和国によるチベット他少数民族に対する行為。
1962年 - 1970年 アメリカによるベトナムでの化学兵器の使用。
1966年 南アフリカにおけるアパルトヘイト政策によるネグロイドに対する行為。
1974年 ルーマニア政府による敵対住民に対する迫害。
1975年 - 1979年 カンボジアにおけるポル・ポトによる住民に対する行為。
1988年 イラクにおけるサッダーム・フセインによるクルド人に対する行為。
1991年 - 1999年 旧ユーゴスラビアにおける敵対住民に対する行為。
1994年 ルワンダにおけるフツ族によるツチ族に対する行為。
1996年 - 2001年 アフガニスタンにおけるターリバーンによる敵対住民に対する行為。
2006年12月30日 サッダーム・フセインが、この罪により、国家元首の経験者としては初めて死刑に処せられた。

2009年01月15日

ルートヴィヒ・ウィトゲンシュタイン

大和撫子 きゃく サバンナ スキニー 情熱支援 ジャング ナリー ハンドカ ヒットパレ シリング ファンキー サーモス カペラ サラリー ニッケ フリフリ シュプネ ルサン レセプト パング テーション ジェロ スイス イライン おりあお パラシ バーゼル 夢街道 桜雨1押 ノート ワスレ どんしゅう プリン ジャスラック レア日本 永遠偉 白い街 パイロット ブイディ ストーブ チャウダ トカラ 管弦 アビブ スター スティック オモ モカ モンタナ ほうすう

ルートヴィヒ・ヨーゼフ・ヨーハン・ウィトゲンシュタイン(Ludwig Josef Johann Wittgenstein [1]1889年4月26日 - 1951年4月29日)は、オーストリア・ウィーン出身の哲学者で、言語哲学、分析哲学に強い影響を与えている。ケンブリッジ大学・トリニティ・カレッジのバートランド・ラッセルのもとで哲学を学ぶが、第一次世界大戦後に発表された初期の著作『論理哲学論考』に哲学の完成を見て哲学の世界から距離を置く。その後小学校教師になるが、生徒を虐待したとされて辞職。トリニティ・カレッジに復学して、再び哲学の世界に身を置くこととなる。やがてケンブリッジ大学の教授に迎えられた彼は、『論考』での記号論理学中心、言語間普遍論理想定、の哲学に対する姿勢を変え、コミュニケーション行為に重点をずらして自らの哲学の再構築に挑むが、結局次の著作となるはずであった『哲学探究』は完成されることなく、癌によりこの世を去る。62歳。生涯独身であった。

1889年4月26日にオーストリア・ハンガリー帝国の首都ウィーンで生まれた。彼の父方の祖父ヘルマンは、ユダヤ教からプロテスタントに改宗したのち、ザクセンからウィーンへと転居した商人であり、その息子でルートヴィヒの父カール・ウィトゲンシュタインはこの地において製鉄産業で莫大な富を築き上げた。ルートヴィヒの母レオポルディーネ(旧姓カルムス)はカトリックだったが、彼女の父はやはりユダヤ系であった。ルートヴィヒ自身はカトリックを実践したとは言えないものの、カトリック教会で洗礼を受け、死後は友人によってカトリック式の埋葬を受けている。

ルートヴィヒは八人兄弟の末っ子として刺激に満ちた家庭環境で育った。ウィトゲンシュタイン家は多くのハイカルチャーの名士たちを招いており、その中にはホフマン、ロダン、ハイネなどがいる。グスタフ・クリムトもウィトゲンシュタイン家の庇護を受けた一人で、ルートヴィヒの姉マルガレーテの肖像画を描いている(のちに捕虜収容所で友人から「クリムトが君と同じ姓の女性を描いているね」といわれたとき、「姉だけど」と答えても信じてもらえなかったという)。ウィトゲンシュタイン家の交友関係の中でも、とりわけ音楽家との深い関わりは特筆に価する。ルートヴィヒの祖母ファニーの従兄弟にはヴァイオリニストのヨーゼフ・ヨアヒムがおり、彼はヘルマンの紹介でメンデルスゾーンの教えを受けていた。母レオポルディーネはピアニストとしての才能に秀でており、ブラームスやマーラー、ブルーノ・ワルターらと親交を結んだ。叔母のアンナはフリードリヒ・ヴィーク(シューマンの師であり義父)と一緒にピアノのレッスンを受けていた。ルートヴィヒの兄弟たちも皆、芸術面・知能面で何らかの才能を持っていた。ルートヴィヒの兄パウル・ウィトゲンシュタインは有名なピアニストになり、第一次世界大戦で右腕を失ったのちも活躍を続け、ラヴェルやリヒャルト・シュトラウス、プロコフィエフらが彼のために左手だけで演奏できるピアノ曲を作曲している。ルートヴィヒ自身にはずば抜けた音楽の才能は無かったが、彼の音楽への傾倒は生涯を通じて重要な意味をもった。哲学的著作の中でもしばしば音楽の例や隠喩を用いている。一方、家族から引き継いだ負の遺産としては、鬱病や自殺の傾向がある[2]。4人の兄のうちパウルを除く3人が自殺しており、ルートヴィヒ自身も常に自殺への衝動と戦っていた。